『黒部の太陽』読了記
わたしが幼稚園児の頃、
富山へ家族旅行に出かけたことがあります。
四国徳島で生まれ育っていたわたしは、夏になお残っているという雪がとても楽しみでした。
雪の塊に乗って登ったりいろいろしたところ、
夏の服装では冷たくなり、真っ暗なトンネルを走るバスの中で、母に足を温めてもらっている記憶がやけに残っています。
5歳ほどでしたから、黒四ダムが完成して数年の、ピカピカの時だったと思います。
父は石原裕次郎が好きなので、もしかしたら映画『黒部の太陽』を観たのかもしれません。
長野県民になっても行く機会がなく、わたしが2016年に登山を始めてから、改めてアルペンルートを通ったときは、
記憶と、幼い日の郷愁とで複雑な想いでした。
木本正次著『黒部の太陽』は、
昭和39年に書かれていてそれも登場人物が実名という、読み手には容赦ない展開で、
途中で覚えきれなくなってきて登場人物名を片っ端から書いていきました。
(途中から、地名やら工法やら歴史的事項やら、
片っ端から書いて 落とし込んでいきました(笑))
戦後間も無くの、
右肩上がりの、
困難続きの
未知の境地へ挑むワクワク感。
(頭の中『地上の星』が、エンドレスで流れていました(笑))
プロジェクトXの第一回が黒部ダムだったとか。見そびれた〜 痛恨。。💧
掘削が中断してしまっている難所の破砕帯が この先どれくらいあるのか、、
この停滞を打破する唯一の方法と 導き出したシールド工法。冬が来る前の2ヶ月でシールドを作れと。
本来 半年や年単位にかかっても普通な、強靭で特殊なシールド。
言った方も
言われた業者も
無理難題は百も承知。
ワラワラしているところに怒号で一喝
。。。
なんて、今なら問題視されること💧
それもなんと2ヶ月で作りあげた!
出来上がったその頃、
ちょうど現場では水量が減りはじめ 破砕帯突破!
完成したシールドは風雨に放置。。
困難な状況と、トンネル開通前の 秘境の奥地の仙人谷。
わたしは 行ったからわかります。
(水平歩道 まさしく『黒部に怪我なし』でした)
宇奈月温泉からトロッコ列車で欅平、そこから徒歩なら水平歩道を1日がかりの阿曽原温泉(この部分も業務用の乗り物が当時もあったそう)から、さらに行ったところが黒四発電所の仙人谷です。場所はそこ。休みだからと簡単には下界に帰れません。
次々起こる問題にどの社員もつきっきり
そんな中に
新婚で奥さんが身重の若手が居て、
ようよう取れた正月休みに、
里帰り出産した奥さんの実家に行ったところ
義母が玄関に仁王立ちで 家に上げてももらえず、
産まれた子どもにも奥さんにも会わせてもらえないまま
また現場に戻り、
会社を辞めると言い出した。
上司は事情を知って、山を降りた内勤に替えてやると提案したが本人固辞。
「みんな大変な思いをして現場にいるのに、自分だけ楽できない、辞めさせてくれ」と男泣き。
それも、
なかなか帰ってこないのは、宇奈月温泉で良い思いしてるからじゃないの?と、責められた。。なんてくだりは、
男でない私でも、(分かってやれよぉ)と、
不憫に感じたです。
そういや我が夫も、子育ての肝心な時には不在だった記憶ばかり。
初めての養護学校の文化祭にはアメリカに長期出張。ジョンくんおんぶして、多動で訳わからんやーくん連れて(文化祭中は、担任は見てくれないので)ワラワラしてました。
阪神大震災は、その朝から出張行ってたし、
東日本大震災もタイだかで居なかった。
あ!で、なかなか帰国出来なかったんです。
マイホームに引っ越して二番目に入居したから次の年には組長で 知り合いもなく、その年も海外長期出張で居なかった。高校生のジョンくん頼みでなんとかあたまかず揃えて、どっちかが出る時はどっちかがやーくんと居て…と切り抜けた。(もう少し打ち明けると、やーくん行動障害で目が離せなかった頃 連れ出せも出来ず一人にも出来ず)
その間夫が仕事で力を発揮できるようにと考えていたし、
私 古風なところもあるんです(あったんです💦)今もあるさ!💦💦
ま、我らそんな最後の世代なのかもしれませんね。
あれ?読書感想が こんな話になってしまいました(笑)
とにかく立山黒部の三部作とくくっても良いでしょう、
『高熱隧道』
『劒岳 点の記』
『黒部の太陽』
機会があれば是非!