八ヶ岳に登ろう
今回は、八ヶ岳に来ている。

私は長野県民になった最初が茅野市だった。
ちょっと足を延ばせば上川から眺める八ヶ岳があり、義理の父は上川からの八ヶ岳が自慢で このアングルが八ヶ岳の正面だと思っている。

令和元年11月10日

結婚は同居で始めた。
ご近所のつきあい方も知らないし、土地のことも教えてもらえるだろうし、子供ができたらみてもらえるとも思っていたように思う。
そんな都合の良い予定は、早いうちから崩されていった。
まずは ハネムーンベビーだったこと。
当時 市役所で結構なポジションにいた義父が私に言う。
「教員の臨時職員って話が来たけど おめでただって断っておいたよ」と。
乗っかればいいだけのレールをつかみ損なった心境だった。
計画では 三年くらい働いたり ご近所活動とかで人間関係など作ってから 子供を授かればいいな、、だった。
早速に軌道修正。
人間関係は 子供ができて ママ友とか、そこから広げればいいや、と。
ところがそれも早々に修正を余儀なくされる。どうも新生児期から『目が離せない』。
乳の飲みも悪いから体重の増えも悪い。今はどうか知らないが 保健婦はきっちり3~4時間あけろという。義母は欲しがるだけ飲ませろと言う。その板挟みで自分の選択判断もやってる事も不安しかなかった。
義母は自分の子育てやら生き方に自信があったらしく、自分が『私を支える』脇役とは思ってなく、不満はことごとく小言として伝えてくる。
紙オムツは嫌だから私が洗ってやるから布オムツにしろ。
手洗いが一番。
新生児のおしっこだけで一日十数枚のオムツ洗いが出る。
新婚だったし『教えてもらってる』って姿勢でいたから私もそのやり方に習い、途中からは自分でします と手洗いしていた。
よく泣く子であった。
そのうちやることのほうがかさなってくるし ここで家事のペースを緩めたらやる事たまってくるし、ギャンギャン泣いている時でも「あとちょっとだから」とオムツ洗いの手を止めなくなってきた。
何を大事にすべきか、自分の中でも狂いが生じてきていた。
くたびれ果てていた。
アパート住まいの育児中の友だちに「オムツ手洗いしてる? 大変だよね?」と聞いたら「えー!洗濯機だよー」とビックリされた。みんなそうしてると思っていたのでこちらがビックリした。
数年後 本格的療育が始まったとき、物分かりの良さそうだった言語療法士に 初めて打ち明けた。
「新生児期 泣かせっぱなしにしていたことが、発達の遅れにつながったのではないですか?」と。
数年、ほんとうにそう悩み 苦しかった。
はなしは戻って、
子供を通して人間関係を作ればいい・・・との考えも
早々にとん挫する。
赤ちゃんサークルなるものにかけもちで入っても子供が子供に関わろうとしない。私自身が人見知りの上に話が弾むところまで話し込むこともできない。やたらにニコニコ愛想を振りまいていただけでどっと疲れ、孤独であった。
今でも思う。
スーパーの店内 ガチャガチャ動いたり騒いだりしている子供の母親同士が 夢中で話し込んでいる光景、
店内で言うことを聞かない子どもに 母親が「もう行くよ。じゃあね。バイバイ」と、考えなしにかける 言葉がけの乱暴さ。
よちよちの乳児 ガサガサの幼児から半径2メートル以上離れて平気な親(つきそいの大人)、
子供側の帰属本能だけで 母親業出来るんだ。彼らはさーーっと去ってしまう不安を知らないんだ。と。
さてさて、
歩くのも遅かったし歩く距離も短かったので、二歳越えるくらいまで逆に抱っこひもであちこち出かけられた。この頃が家族単位で最も出かけていた。
今回の出発地点 美濃戸口から歩いたこともあった。

当時 美濃戸口駐車場は無料で 小一時間歩くと小松山荘、美濃戸山荘など三軒建物が並んでいて、ガタイのいいお兄さんがかっぽう着?のような作業着で「お茶飲んでってください、お茶どうぞ~」と声かけしてくれて お茶をいただいたことがあった。
その小松山荘は 今は名前を変えていた。

思い返してみても、私の茅野市民時代はやることやること裏目に出て、振り返った時 よく乗り切ったなと我ながら思う。それが若さなのか?同じ人間でも今はムリ。
保育園に上がる前くらいの頃、義母に「やーくんはみれないから」と言われた。不意だった。もはや同居のメリットなど 若い側には何もなかった。
その後15年くらいは思い出すと気分悪さがよみがえり、号泣しながらお皿を洗ったことも一度や二度ではない。(フラッシュバックと呼ばれる精神症状ですね。)
松本に住むようになってやーくんの行動障害がひどくなって、年下の相談支援専門員(老人で言うケアマネ)と作業所の若い副施設長と三人 なぜかうちでテーブルはさんで座っていたとき打ち明けるつもりもなかったのに、家族にまでそんなこと言われてひとりで抱えてきたのだ、とグジャグジャに大泣きしたのがターニングポイントだった。王さまの耳はロバの耳じゃないが、人に聞いてもらうって薄まるきっかけにはなるようだ。今はその事を思い出しても、もう遠い過去であり ざわつかない。
実際そこから客観的に、恨みつらみじゃない振り返りが出来るようになった。
言った義母はきっと、その時私が何も言わなかったから 承諾したと判断したことだろう。悪気はない人で、それは一緒に住んだからわかっている。
もし私がその時 顔色を変え「なんでそんなこというの?家族じゃないの?」と強く言えてたら状況は変わった(のかもしれない)。
けど『そうすれば』と 自分が結論づいたのに15年かかっている。私の頭の回転ののろさも一因ある。
そうさかのぼれるようになってきた。
静謐な目線でさかのぼっていくと、だれが一方的な悪人とかではない。すべては必然だったんだと今なら思える。
人生に タラレバはないのだ。
今回の宿泊先は赤岳鉱泉だ。
11月半ばで営業している山小屋は限られている。

【到着にゃ〜】

【やったー✌️今日の夕食はステーキ🥩】
今回のガイドの行き先は 阿弥陀岳と御小屋山をおねがいした。


そして御小屋山は茅野市側からの阿弥陀岳正面の前衛峰で、上社御柱祭の御神体、モミの大木を切り出していた神宿る山。(ただ、ここ何回かは適した樹齢のモミがなく他方から切り出しここまで運んでいるとか。)

今年初めから
今までの生き方を見直すためのSPトランプ診断を受けたり、生き生き立ち動いている佐久のiitocoさんで話を伺ってこれからの指針を探ったりしてきていた。それでもやり残していることがある。。。
いろんな出来事やらにフタをして 茅野市民時代の想いを全部飲み込んで膨張した、さながら『千と千尋』の巨大化したカオナシみたいになっている自分から、ゲボゲボ吐き出して等身大にしていこう…と 思い立ったひとつの方法が
この山行なのである。
乳児期痩せこけているやーくんをみながら型通りの肥満対策の指導をした保健婦の在る この地方都市体質も
「様子をみましょう」と言いっぱなしの小児科医も
(様子を見ると言うからにはフォローが必要だろう。同じ内容を言っているのだが「診断をつけるのはまだ時期ではないが可能性としては発達障害、自閉症の疑いはあるので、定期的に医療機関に見せてくださいね」、、とまで丁寧に言ってくれたのは 徳島大学病院の小児神経科だった)
医療福祉センターという専門機関にもかかわらず、
担当になった作業療法士は 親へのカウンセリングもなしに作業療法の意義なども伝えず
「間食は控えて」
「睡眠時間は一定に」
「味付けは薄めに」
「寝ないなら昼間はよく遊んで」 等々の、教科書通りの問題点のみ指摘し、
その繰りかえしの日々の末
「やーくんは 私といるより(規則正しい生活が『幸せ』なのなら)施設に入るのが幸せなんじゃないの?」
と渦中の母親に思わせる、患者の先に展望を持たないこの地方都市の障害児福祉も。
あの日常の中で日々八ヶ岳ながめても、
この人的土壌 思考風土を作ったのは むしろ厳しい自然環境だったようにも感じ、若かった私は気持ちが向かなかった。
そして。
未熟で 、家族幻想を抱いて、
ロマンチストだった私にも。
「ダメだったじゃんね!」「失敗続きだったね!」と。
長野県民になって29年。
山に登り始めても避け続けていた山域 八ヶ岳に 気持ちが向いてきた。
あるがままの八ヶ岳を味わうために。

【下山後、阿弥陀岳・御小屋山をながめながらの農大でアイス】
よくもまあ2016年に、登山を始めたなあ。筋肉痛でこりごり!の 可能性もあったのになあ。
2019年11月に この気持ちにたどり着くようになにかが導いてくれたのかもな。

【見たことない八ヶ岳のアングルその1】

【見たことない八ヶ岳のアングルその2】

【八ヶ岳からの富士山にゃ〜】
帰りに茅野の義父母宅に寄る。
なんだか街が、義父母が、違って見えた。
これから八ヶ岳を遊び倒すぞ〜♡