エガクのブログ

絵を描く事と、山に登る事と、作業所に通うハンディのある長男と、夫と、東京に居る二男と…

光城山って、こんなに遠かったっけ?

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登山を始めてもう何回、光城山に登ったことだろう。

11月に膝がコキッと鳴ってから、久しく寄りついてなかった。

 

 

 

それが、

 

熟年家族のウォーキングでずいぶんと歩けるようになったやーくん。

やーくんと光城山に登ってみよう と、思い立ったのだ。

 

登り始めて、

よちよちのやーくんの後を歩きながら

頭の中はぐるぐる考えていた。

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(この写真は降りの後ろ姿)

 

 

(登ることに何の意味があるの?)と、やーくんは思ってるのではないのかなぁ

それってやーくんが飽きもせずやっている 紙をちぎる、紙の山を作ることに私が意味づけしにくいことと、どう違うのだろう

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山の景色が良いとか →(景色見てないし)

健康に良いとか →(今の自分の状態に関して健康不健康の概念で見てない気がする)

そんなこと思ってないよなあ

 

そういえば

じゃあ私はなんで山に登ろうとしてるんだろう

ほめられたいとか

認めてもらいたいとか

あったんじゃないかな。すぐさまSNSに上げてたし

 

ところがそんな承認欲求を揺るがす事態になったわけだ。

無病息災(無傷息災)だったのが、ヒザをきっかけに『今までと違う』感覚をうっすら感じていたこともくっきりしてきた

集中力が途切れるとか

以前になにも感じず行けたところに怖さで足がすくむとか

 

も一度原点に戻るってどうだ? 人の反応じゃなく

夢中になった自分

ワクワクしたあの気持ちを大事にすれば、誰の目に触れない登山でも良いじゃないのか

それと『生老病死』を『苦』と思うのでなく、つきあっていけば苦でなくなると思う。

色即是空 空即是色

行けるとこまでとか、時間をかけてとか、変化に合わせるのを楽しめばいい

 

って。

そこまで思ったら、スーッと

何か取り憑かれたみたいな憑き物が消えていった。

 

この日も、中間地点で引き返した。

ちょうど気圧配置が変化したところで、春並みの暖かかった空気が 山の斜面の向きによっては耳や手など出ている部分が、痛みを感じるほどの冷たい風に 変わりはじめていた。

 

やーくんが楽しく…というか 機嫌良く登っている、

そのところを大事に考えたら、

苦行のような耐寒に意味はない。

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いつ頂上に辿り着けるかなって楽しみが出来た。

いろんな条件揃えるのも楽しめばいい。

 

いやぁそれにしても、光城山ってこんなに遠かったんだ(笑)

よく頑張ってたな、ジブン。

あれはあれで楽しかったな、ジブン。