『居酒屋兆治』を観て、高倉健に想いを寄せる
先週のことになりますが、祝日で家にいた時にBS劇場で『居酒屋兆治』を観ました。
高倉健主演ということと、映画名だけは知っていました。
実はわたしは 映画を本当に見ていない人間です。
ゴールデンアワーのロードショウは、家事時間だったりして時間的に座ったままで居られないし、
それが
ここのところの自粛ムードの日中在宅時に、BSでいくつか見ました。
タロジロの『南極物語』もBSで見ました。
『八甲田山死の彷徨』だけは、小学生の時父親について行って見た貴重な映画です。
南極も八甲田山も、当時のロケって画面からも過酷さが伝わってきました。
『居酒屋兆治』は、小さな町で ベタベタと全て見られながら生きざるを得ない人間の息の詰まるようなあえぎと、
逆にそういう距離の安堵感の両方を感じ、
雑多な昭和の雰囲気が、なんだか妙に懐かしいような 気持ちに包まれながら見ていました。
今のわたしにしても、あんな濃厚な人間関係の中に居ないこともあり、
端役の描き方にも
(ああそうなのか、こんなくらいに内情をさらされながら生きることもアリだったのか)なんて自分に置き換えて思ったり(いやいや、映画ですから)
役柄なのに、高倉健の演じる役柄って高倉健から外れないようなところってありますよね。
ということは、役柄は高倉健を現しているのではないのかな。
高倉健演じる主人公の心理として、うっすらと周りの人間の期待に応えようとしている風な行動でもあり、
その彼に「じゃああなたが一番したいことはなんですか?」なんて いまどきの問いは…
生き方にも関わってくることで、
やっぱり愚問な気がします。(映画なんですけどね)
ネタバレなんて言いますけど、もう何十年も前の映画ですから。
映画で知りたい方はここから読まないでください。
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論評も読んだんですけど、
そこには妻が一番可哀想だとありました。
お見合いで結婚し、同じ町に夫のかつての恋人もおり、
結婚当初はサラリーマンだったのが、ある日突然居酒屋をやると いきなりの転身。
元恋人は、心ならずとはいえ地元の有力者と結婚したにもかかわらず
未練たらたらに店に電話してきたり(それも無言電話…💦)
夫も妻も、彼女だと気づいている。。。
という状況。
急展開の出来事ののち、
最後のシーンで、
閉店後の店の中で
妻が
「〜長いセリフは省略〜
わたし、居酒屋の女房で悔いはないわ。
じゃあ しめじのおじやを作って待ってるわね」
あれ?同じ家に住んでるんですよね?なのに一足先に店を出て
それに加えて料理を作って待つという。。。
これってウイニングランならぬウイニングウォークって気がする〜!
それと元恋人役は、美しい大原麗子。
心ならずの結婚の段階で未練はあっても、女って子供をもうけたら気持ちは切り替わる気がするけど。
そういう設定でなく、ある日突然失踪するんです。(男の群像劇にありがちな、女の設定の雑さ。原作者はたぶん男)
場末のキャバレーで働いて、浴びるように酒を飲むという。夜な夜な泣きながら兆治に無言電話をかける。。
で、失踪先で死ぬんですが、肝臓ダメにして喀血して死に至ったら、あんな美しいままじゃないと思いますよお!
造作がキレイでも、皮膚とか髪毛とかガサガサになるでしょう?知らんけど。
一旦別れた女が生気失っただけでも男は愛想尽かす気がする。
男って女が病がちになるだけでも嫌がりません?
あ、それはわたしの実体験か(笑)
愛想尽かさず探しに行ったところが高倉健なのか。
そうかあ。。
それで、
最後のシーンです。
妻が、夫に喋る間を与えず遮るように自分の考えをしゃべりきり
先に店を出た後。。
酒をコップに注いでガーッと飲みます。
ひとり涙します。
一呼吸置いて、店を出たところで映画のエンドロール
あの涙の意味。。
密かに愛情を持っていた女の死を悼む?
愛情はもうないけど死をあわれむ?
いえ、見る人それぞれの解釈でいいのです。
そのための無言のシーンなんでしょう。
【秘すれば花】
私事なのですが、一時期、泣くようなことがあった時、「わたしは泣きました」と
暴露していた時期がありました。
でも、兆治のエンドの涙を見て、多分彼はそのまま帰って何事もなく妻のしめじのおじやを食べただろうと思いました。
「俺、あの後泣いたんだ」とは妻に言わなかっただろうと。それって妻の、あの言葉に含まれた期待に応えたんじゃないのだろうかと。
『こんな状況を乗り越えた私の笑顔です
こんな辛いことがありました』
等々の
想いなんて
誰にも知られなくてもいいんだと、このシーンを見て思った次第です。(映画ですけどね)
そういや高倉健も、プライベートは公に出さない人でした。
亡くなる数年前に何回かドキュメントは見ましたけど 私生活を話す、それすら珍しいことでした。
そして、死にゆく
弱っていく自分をさらさなかった人です。
最後まで俳優高倉健像に応えようとしたのでしょうか。
それも今ではわかりません。いろんな人が興味を向けた存在でさえ、そこには応えず明かさなかった。
それでもいいような気がしてきました。ましてや市井の私のことなど 興味はないよね。
映画って人間の生き様を俯瞰しながら 自分自身をも見直す術になったりします。
膨らみすぎた自意識を 等身大に戻す作業とでも言いましょうか。
あ! 娯楽としてたのしむだけでも全然良いですし。
そんな自身回顧の機会になった『居酒屋兆治』でした。