山菜取りで、社会の立ち位置を再考する の日
登山を始める前にガーデニングをしていたこともあって、
店先で売っている姿しか見たことのない植物、花を
実生の姿で目にしたときは、感動ものだった。
だからと言って、山菜(=採ってきて食べる)には興味がいかなかった。
長野に嫁いで間もなくの二十代の頃、山あいの蕎麦屋に連れて行ってもらいきのこそばを注文した。きのこの水煮をイメージしていた私には、濃過ぎて食べることが出来なかった。その経験が後を引いているのかもしれない。
売られている野菜は、昔のような
『野菜の味がしなくなった』ともいうが、
品種改良で食べやすくもなっている。
えぐみや苦みがなくなって
皮や筋が柔らかくなって
下処理不要で 調理にかかれる。
そのことはすなわち食材を『意識しなくなった』ということだ。
『生活に意識を向けないでよくなった分 あらゆるモノコトを 外に広げられた』
のが、『現代社会』なんだろう。
家事に一日かかっていたなんて、今生きている人間は実生活で知らない。
『専業主婦?退屈じゃないのかしら。』
家事ってその程度。
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このタイミングで
わたしに山菜取りの機会があったのは、何かの啓示なのかもしれない。
世界に吹き荒れたコロナ禍。
私もご多分に漏れず三月四月五月の予定はほぼ消えて 真っ白になっていた。
それでも辛うじて 非三密などの条件が整っていたブッシュクラフト講座は受講でき、
同じ受講生だった鈴木さん(以下ズッキー)に、スケジュール真っ白をぼやいていたこともあって、山菜取りにご同行させてもらえたようだ。
当初はお楽しみ程度の気持ちで、
ひさびさ(要るかな?)と、登山靴を持ち出してきたところで気持ちはるんるんと、上がってきた。
最初にかかわる人物の存在って大事なんだと思う。
初登山も、あのガイドさんだったからハマったのだ。
数年後、どうしても行きたい場所があって 違う人物にガイディングを依頼したことがあった。
おそらく知識も経験も豊かで、職業ガイドとしては優秀な人だが、本人はその山行・景色を楽しんでいる。対して私にかける言葉は険があり 出来ないことを 頭ごなしに 怒りごえで言う事にも抵抗がない。。そんな様子で、気持ちは萎縮してくるし、せっかく実現させた山行がどんどん面白くなくなってきた。
面白い所に行ったのではなく、人が面白くしてくれたんだとの気づき。
話が脱線してしまった。。
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ズッキーは最初に「初めてですか?」と聞いてきた。
そしてそのあと言われること とても丁寧に説明してくれて、それはことごとく聞いておかないといけない内容だった。
知っている植物だけを取る
葉は一枚づつ取る
先客が取った跡のある植物は、もう取らない
先人の暗黙の常識でも、初めての人間には 知らなければやらかしてしまう行動のように思う。
実際群生していれば、畑でやっているようにガサっと束ねてとってしまいそうだ。
本来、食べることは命がけの行為なのだ。
今三度三度の食事を命がけで食べている現代人って、いるのだろうか。
(箸でつまんでいるこのお浸しの中に、毒草が混じってて、のたうちまわって苦しむかもしれないなあ)
って、口に運んでる?
取って食べられる植物のすぐ隣に、人間にとっては毒のある植物がある。
取れる草種を知る→
取れない草種を知る→
毒を知る→
隣り合わせに存在する死→
ともなう緊張感→
あたしはいいの、山菜なんか食べないんだもの的思考(インフラの中で守られている事による無意識の行為)→
関係性の有無による切り捨て→
『知らないことは罪』なのではないか。。
食べられる部分を見つけた
その株の周りを観察する
今シーズン摘み取った跡がある
その株は取ってはいけない
そのあと弱って死んでしまうから→
あとのことを考える→
自然が続くように恩恵をいただく→
地球の存在を感じる
地球を大事に思う
わたしの頭の中で、そんな壮大な地球規模の思考が展開されているかたわらで、
ズッキーの佇まいはあくまでも自然体。
要は知ることとルールを守れば良いということなんだよね。
そんな気づきのわたしでも、身体は森の何かに反応して鼻水グシュグシュ、くしゃみ連発、その後二日ほど三半規管の様子がおかしかった。いかにインフラに守られていたかを痛感する。
籠に森の恵みをいただき、ありがたく人間社会に戻って行った。
帰宅してさっそく下処理を開始した。
ズッキーはその場で丁寧にその山菜の食べ方、下処理の仕方を教えてくれた。
小さいころイタドリを醤油につけて酢の物みたく食べた話をしたら、ズッキー
「イタドリの酸味はシュウ酸なので、体内で石に変わる恐れがあります。」
「それと山菜はナマで食べないようにしてください。中に寄生虫の卵がある可能性もあります。」
すえっちに分けてもらった鹿肉は新鮮で、刺身にして食べた話も、ズッキー
「肝炎になりますよ。ナマでは食べないことです。」
Σ('◉⌓◉’)
ひょえー!知らなかったこととは言え…💦 登山でいう無謀な中高年じゃん。
もうカラダは野生動物じゃないんで、こちらが用心して合わすほかないようだ。
そんなこんなの大事なことを、そこかしこで聞くことができた。
あー早く始めないと 知識が脳からポロポロこぼれていく〜💦
マジック持参で正解だった。聞いた名前を新聞紙にザッと書いておいた。
それを付箋に書きおこして洗浄した山菜を入れたタッパーに貼っていった。
明日のテンプラ予定以外の山菜は茹でた。
ん?茹でたんだから食べられるじゃん。
と、食べ較べ。
口の中に痺れを感じたのは気のせいなのか。。
食後のフレッシュティー
翌日の料理
サンショ葉のつくだ煮
ヨモギのあんころ餅
ツル系は天ぷらに
洗い方だってスーパーで買ってきた野菜のざっとした水に浸けただけ…とは違って
一枚一枚優しく指でこすって 目で確認していく。
茹でるのも、
茹でこぼすだけなのか、しばらく茹でて灰汁をよく抜くのか、山菜によって違っていた。
『山菜を取りに行く』のと『調理』はワンセットであり、『美味しく食べる』ようになるまでにも幾らかの関門があるように思った。
本来食べる事は奥深く、
収穫は英知と体力 調理は科学だ。
わたしの場合、これまでの主婦生活(家事の繰り返し)の蓄積があったから の、山菜採りでの気づきに繋がったのだ。
山菜採りも、自然(つまるところの地球)と どう付き合うかのじぶんの姿勢だったり、
どう生きるか、に繋がっていく。
そういうスタンスでとりくめば、登山も山菜採りも、道楽や趣味ではない。
地球と自分のガチの向かい合いだ。
そういうような行動をとっていかなければ だ。
このタイミングで知ることが出来て、経験できたことに感謝している。