歩き遍路
春の季語が『遍路』だそうです。
私は句はたしなまないので、人のコトバを味わうのがもっぱらです。
遍路道には、道しるべのように札がかかっています。
特に、難所で知られる『へんろころがし』の道にはおびただしい数の札があります。
11番 藤井寺から12番 焼山寺の間は自動車道が別のルートでつけられたからか、
弘法大師が歩いた当時の道の雰囲気が味わえます。
それは、山をふたつ越え三つ目の山頂までの12.9㎞を歩き、
別名『へんろころがし』と呼ばれています。
私は登山を始める数年前の『歩きの素人』のとき阿波一国を打ったのですが、『へんろころがし』を登れる自信がなくて『逆打ち』で、しかも一人で行くのも怖く 健脚の母と二人で下ってきました。
その後数年たったがいつまでもあの道のことが頭から離れず、(今なら登れるかも...!)と、今回帰省して夢を実現できました!
登山を始める前は 妄想が先行しがちな怖がりだったのが、登山のソロも経験して何を怖がればよいか分かってきたところもあり、一人でも歩けるかも...と、思い立つこともできました。
遍路することは『同行二人』と言います。
自分なりの解釈なのですが、
遍路をしようと思い立った時点でお大師さまのご加護 (?こんな表現で良いのかな...) のもとにある、
つねにお大師さまと歩んでいるのだと。
いうことかな?
帰ってきてからスマホをチェックしたら、心に残った札を撮影してなかった!
!Σ( ̄□ ̄;)ガーン
それは
『へんろで自分をととのえたら 利他に力を使え』👈という内容の、句💦
ガーーンと 叩かれた気がしました。
私は外に向かって尽力しているのだろうか...と、自分の生き方を問われている、と気づくのです。
歩いているとき、懐かしい香りがしました。
アロマに詳しい方なら分析できるのでしょうが、松(パイン)の爽やかな香りにスパイシーな香りが加わった...としか表現できないのがもどかしいけれども、
照り葉の 常緑広葉樹の多い自然の香り、
私にとっての『徳島の香り』です。
今回帰省して、この空気、
景色、
自然、
食べるもの、
文化、
私を愛してくれる人たちがいて、
なんで離れてしまったんだろう。。と、
歳を重ねるほどに 身悶えするような感情が強まっている自分がいます。
だから歩く。そんな気がします。
歩くことで自分を
内(心)から 外(身体)から 整えていく。
すると、あの焦燥感が鎮まってゆくのです。背負って生きていこうと。
仏の教えに 愛別離苦 生病老死
人間が生きていくなかで味わう苦しみがあると。
それらから逃げたり 遠ざけたり 誤魔化したりするのでなく、前からドーーンと立ち向かってみる。
(弘法大師立像と、一本杉)
その立ち向かい方を『諸行無常』の自覚の上で『発心』と表現したのではないか、と、私なりの解釈をしてみる。
歩き遍路ってそんな強さをもらえる場だと感じます。
もちろん 若い人の体力だめし、スピード自慢で日帰り往復、トレランのトレーニングで入山してくる人も居るし、それぞれの思いで良いと思ってます。それにその寛容さが1200年続いた理由のひとつでもあると思います。
ちなみに、
アルプスとは桁外れの年数を 踏み固めてあるので(始まったのが1200年、盛んになったのが江戸時代 それでも400〜300年)
スッゴク歩きやすいですよ!
ちなみにちなみに、
朝早く出る!ところだけは気をつけて、7:30から歩き始めましたが、
ほかは
写真撮ったりしつつ景色を眺め、ウグイスや川のせせらぎに耳を澄まして五感をフル回転。
急ぎもせず、
歩くことを その場にいることを味わったのですけど、6時間のコースタイム通りでした。
やっぱり私はコースタイムウーマンです(笑)